ホーム > 聲明について > 南山進流

聲明について

6.南山進流

血脈2 寛朝僧正以降、様々な流派が生まれましたが、時がたつにつれて、非常に煩雑になり、聲明の博士もいろいろなものが出現しました。こうなると、儀式を行うにしても、唱える声明が煩雑になってしまいます。とうとう、流派を整理するという事態が起こりました。『聲明類従』付録には「諸流分派之事」として、各流の大家を集めて乱雑になった聲明の統一を図られた事が述べられています。

 仁和寺の覺性親王(1129〜1169)は、大聖院御所において、真言聲明の大家十五名を招き、七十餘日をかけて諸流派の博士を研究・校合されたと伝えています。これにより、次のように流派が定められました。

  • 仁和寺相応院流─本相応院流(後の菩提院流)
  •            └新相応院流(後の西方院流)
  • 中川大進上人流
  • 醍醐流

 ところで、實範の弟子に、宗観という方がいました。この方は、非常に熱心に聲明を学ばれた方で、實範まで相伝された聲明とは別伝の忠縁という人物にも受伝され、二手に分かれて相伝された聲明が、宗観で再び一つになりました。この時期は隆盛の極みであり、宗観の弟子である観験により、宗観まで連綿として相伝してきた聲明を、先師の別名である「大進上人」にちなんで「大進上人流」と名付けられ、これを略して「進流」と称するようになりました。

 その頃、観験に聲明を学んだ、高野山三宝院の勝心という人物がいました。当時の高野山は、真言宗の本山でありながら、聲明の本流が伝承されていない事を遺憾と思われた勝心は、宗観の法孫にあたる慈業上人へ「進流聲明の拠点を高野山に移したい」と切々に訴えた手紙を送りました。慈業上人は、様々な方面に相談をされ、賛同を得て進流聲明の拠点を高野山に移す事となったのです。以後、大進上人流は高野山の別称である南山(京都を中心として、高野山は南方にあるため「南山」と呼ばれていました)という言葉をつけて「南山進流」として生まれ変わり、現在に至るまで脈々と伝えられる事となりました。

 ただ、この説は、慈鏡という僧が弱冠二九歳の時に書いた『聲決書』に初めて見える説で、しかも書かれた時代は応永三年(1396)とかなり後代であり、内容もあまり宜しくない書として有名です。聲明の大家であった中川善教師は、「哲学的要素が強く、音階を四季や五行に配当したりと、後進を大いに惑わせた」と批判され、同じく大家の岩原諦信師も、「聲明の音階理論を崩壊させた」と批判されているものです。国語学で有名な金田一晴彦先生は、「進流の由緒について、その正しさを主張するために創作された伝説ではないか」と推測されています。

 一方、当時の高野山に聲明が相伝していなかったわけではありません。実際、高野山上では様々な儀式が営まれていたわけですから、それらに必要な聲明は唱えられていたはずです。ちなみに、大進上人の声明は、高野山の明算師より伝わっているので、全く縁が無かったわけではありません。高野山から奈良へ相伝し、また元へ戻ってきた格好になります。上述の勝心師は、相承でいうところの「正嫡」が当時の高野山におられなかった事を嘆かれたのでしょう。

 また、血脈(相伝系譜)をご覧いただけるとお分かりの様に、寛朝師と仁海師に分かれて相伝されてきた聲明は、濟延師が両伝を、また明算師も両伝を相承、さらに大進上人宗觀師も両伝を相承した事になっています。南山進流は、寛朝師と仁海師以降、二手に分かれて相伝していた聲明が一つになって相伝する様になった点も、特筆すべきところでしょう。

 その他、真言聲明には真言宗智山派に相伝されている「智山聲明」、真言宗豊山派に相伝されている「豊山聲明」が存在します。両派の聲明は、中川大進上人流に由来しましたが、後に醍醐流をもとにして、一派を形成するに至ったとされています。これら二つの聲明についての詳しい説明は、たくさん他のサイトがありますので、そちらに譲る事とします。

(C)特定非営利活動法人SAMGHA. All Rights Reserved.