真言宗は弘法大師・空海によって開宗され、高野山や東寺を拠点に真言密教が展開されました。真言聲明は、大同(806)元年、唐より帰朝された際に日本へ相伝されたと考えられています。
空海以降、弟の真雅僧正の伝、高野山第二世真然大徳の伝に分かれて相伝するようになります。一〇世紀頃になり、真雅僧正系の聲明を相伝した寛朝僧正の出現により、約一六〇年を経て、ようやく大成されるに至りました。この間、歴史書には真言聲明に関する記録を見ることができません。
寛朝僧正は、非常に精力的な作曲活動をなされ、真言聲明の重要曲は、ほとんどこの時期に完成され、諸儀式の聲明が整備されたと言っても過言ではありません。またその一方で、聲明修学の規則を制定され、「聲明中興の祖」と仰がれる存在となりました。
寛朝僧正のあとは、二手に分かれて相伝していきました。一方は、寛朝―想壽―信禅―忠縁と相伝し、もう一方は寛朝―雅真―仁海―成尊―明算―教真―實範へと相伝されました。
ところで、初期の天台・真言聲明は、よく似ていたと考えられています。『叡岳要記』下巻には、承和元年(834)に執り行われた比叡山西塔院の供養へ、東大寺や興福寺の僧とともに、宣旨によって空海、真雅、真済ほか四名の弟子を引き連れ、参加した記録が残されています。奈良・天台・真言の僧侶が一堂に会して法会を執り行い、聲明を唱えた事は、今となっては驚きの事です。当然、現代では唱法があまりにも異なるため、一緒に斉唱する事は難しいでしょう。初期の聲明は、比較的似ていたか、もしくは互いの唱法をそれなりに会得していたとしか考えられません。両者の違いがはっきりしてくるのは、それぞれの聲明が大成された平安中期以降と考えられています。
写真:『群書類従』 「叡岳要記」より(国立国会図書館蔵)
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