室町時代は、聲明の相伝にとって、非常にマイナスな時代であったといえます。この頃になると、楽理と唱法が噛み合わなくなって、聲明習得の大きな壁となっていたのでした。
例えば、先述の慈鏡による『聲決書』は、密教大辞典をひくと「聲明特に進流に關して研究家の好参考書なり」と記載されていますが、実際は聲明が乱れ始めた時代を代表する悪書として、研究者の間では認識されています。五調子を方角や季節、陰陽五行説を交えたりと、なんとか「音」に哲学的な要素と結びつけようという感じです。また、付録部分は、別人によって付加されたと考えられていますが、こちらも理論が破綻していて、意味不明な内容が散見されます。
このように音楽理論を無視し、聲明の哲学的意味づけを高めるために、関係のない要素を付随する事に集中され、本来正確に唱えられるべき博士(楽譜)の重要性が薄れてきます。結果、楽理的に無茶な口伝が出来上がります。例えば、「徴」の音と「角」の音を同じ音として唱える「徴角同音」という口伝があります。これは、本来違う音であるのに、楽譜を無視して同じ音で唱えるという事であり、音楽としては考えられない事です。しかも、この口伝には「どの場所でその口伝が用いられるか」という法則性がないので、あくまでも能化(教授の事)の口伝えに頼るしかありません。さらに、楽理を理解していない人にとっては、「階」や「調」の重要性は重きをなさないものとなってしまいます。岩原諦信師によれば、このような口伝も、やはり室町期からであると推測されています。
「伝統もの」は、とかく口伝や秘伝を尊重し、何でも「有りがたい」として、その内容を疑う事を知らず、盲目的服従をなす傾向にあります。したがって、前述のような意味不明な唱え方、教える人の癖など、そっくりそのまま相伝されるようになりました(これは、聲明に限った事ではありませんが…)。例えば、岩原師などの研究によると、「正保や寛保の魚山は略頌文や付録関連を無批判で収録され、後世を惑わせた」と述べられ、内容を精査せず魚山が編纂され流布するという弊害を生みました。流派内では、これらの二書を「重要資料」として尊重していますが、どうやら取扱には注意が必要のようです。師伝の癖については、「錫杖」という曲が比較的有名です。「杖」を”ディョウ”と発語する事を師伝としますが、慈暁師は「”デウ”とも”ゼウ”とも明瞭に言わざるを以て好しとす」と沙汰し、また雪玄師は「普通に”ヂャウ”と読む」と沙汰するなど様々です。したがって、学んだ人物によって、発語の違いが発生します。ちなみに、「杖」を”ディョウ”と読む師伝ですが、寂照師(明治期の大家)の訛りがひどかったため、そのように聞こえた事が原因らしいというお話を聞いた事があります。ただし、この説については裏を取っていませんので、ご了承下さい。
話を戻しましょう。さて、先哲の中にも、批判を恐れず正しい方向へ戻そうと努力された人物がいます。その人物は、木食上人朝意師(1518~1599)です。 二階堂勢遍より聲明を受け継いだ朝意師は、楽理等を熱心に勉学され、筋の通らない内容を削除したりと、立ち直しをはかられました。また、魚山集に独自の研究を重ね、『魚山私鈔』をはじめとした様々な著述を残されました。現代に伝える南山進流聲明の音曲は、朝意師の説を本としています。
その後、流派内では「神(仏?)」的存在として崇められる、普門院理峰や廉峯が現れます。聲明に精通し、多くの門人を抱え、聲明流布に力を注がれました。しかし、残念ながら楽理には暗かったようで、実際は朝意師が立て直しを図った聲明理論を元の木阿弥にしてしまいました。例えば、上述の、魚山から木食上人朝意師が削った、『聲明聲決書』収載の付録を無批判で復活させる等です。ここでも口伝・秘伝尊重主義が(残念ながら)悪影響を与えたのでした。
写真:『續真言宗全書』第三十「聲明聲決書」より
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